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感動しなくなったことについて

ここ10年くらい、感動することが少なくなってきた気がする、桑名です。

なぜなんだろう、と少し考えてみた。

たぶん、自分の中に価値観が形成されてきた頃からなのではないかと思う。

今まで見たことのない景色を見たとき。
初めて食べるものに出会ったとき。
今まで体験したことのない建築に入ったとき。

昔は、そういう「初めて」に触れる機会がたくさんあった。

でも年齢を重ねて、いろいろな場所へ行き、いろいろなものを食べ、たくさんの建築を見るようになると、いつの間にか比較するようになった。

きれいな景色を見ても、
「あそこで見た景色の方がすごかったな」と思う。

おいしいものを食べても、
「前に食べたあれの方がおいしかったな」と思う。

建築を見ても、似たものや過去に見たものを頭の中から探してしまう。

経験が増えるということは、自分の中に膨大な比較対象ができていくということでもある。

そしていつの間にか、それを超えたかどうかが、感動するかどうかの基準になってしまっている。

これは当たり前のことなのだろうか。

それとも、自分がそうなってしまっただけなのだろうか。

たまに、何を見ても本当に初めて見たかのように楽しめる人に出会う。

小さなことにも驚いて、楽しそうに話している。

そういう人を見ていると、少し羨ましくなる。

同じものを見ているはずなのに、その人の世界の方がずっと広く見える。

もしかすると、自分の中に基準をつくりすぎないことが大切なのかもしれない。

 

そして最近、もう一つ思うことがある。

誰かと感動を共有すること。

自分一人で見て、自分一人で判断してしまうと、結局は自分がこれまで蓄積してきた価値観の中だけで物事を見ることになる。

でも誰かと一緒にいると、

「この人はこんなところに感動するんだ」

ということがある。

自分では何とも思わなかったものを、その人が楽しそうに見ている。

それを見ていると、不思議とこちらにも新しい感情が生まれてくる。

自分一人では気づけなかったものを、誰かの目を借りてもう一度見る。

それも、感動を取り戻す一つの方法なのかもしれない。

 

それと最近、ものすごく小さなことに感動するようにもなった。

圧倒的な自然を見たときでもなければ、有名な建築を見たときでもない。

枯れそうになっていた植物を手入れして、それが少しずつ元気になったとき。

新しい葉が出てきたとき。

朝日や夕陽がきれいだったとき。

そんな何でもない日常の中にあるものを、美しいと思うことが増えた。

 

もう一つは、自分の想像を超えたことが起きたとき。

大人になると、いろいろなことを予測する。

仕事でも、遊びでも、日常でも、

「こうしたら、たぶんこうなる」

というところまで、知らないうちに考えている。

設計の仕事なんて、特にそうなのかもしれない。

こういう空間にしよう。
ここから光を入れよう。
ここにはこの素材を使おう。

完成した姿を想像して、それに向かってつくっていく。

でも実際に建物ができたとき、自分が想像していなかった光が入ってきたり、思ってもいなかった場所が気持ちよかったりすることがある。

自分で考えたものなのに、自分の想像を超えてくる瞬間がある。

そういうときは、今でもちゃんと感動する。

考えてみれば、感動すること自体が減ったわけではないのかもしれない。

感動する場所が変わっただけなのかもしれない。

昔は「知らないもの」に感動していた。

今は、自分では気づけなかったものや、自分の想像を超えたもの、そして何でもない日常の中にある小さな出来事に感動する。

これから30年、40年と生きていけば、経験はもっと増えていく。

比較するものも、きっともっと増えていく。

だからこそ、自分が知っているものだけで世界を判断しないようにしたい。

誰かと一緒に見たり、いつもなら通り過ぎてしまうものを少し立ち止まって見たり、自分の思い通りにならないことを面白がったり。

感動するために、ものすごい場所へ行く必要はないのかもしれない。